| 一、はじめに | 二、ボランティアは誰にでもできる |
| 三、ラオス、ヤオ族村て | 四、ラオス、メオ族の事件 |
| 五、生活習慣が変わる | 六、里親就学援助 |
| 七、乳牛プロジェクト | 八、放置自転車援助 |
| 九、中古衣料はどこへ行く | 十、イルカの支援 |
| 十一、人身売買( 病気の母) | 十二、人身売買( 貧困) |
| 十三、こどもを人手に渡す | 十四、衛生支援 |
| 十五、マラリア | 十六、あとがき・・・ |
ボランティア活動をする時、守らなければならない原則のように言われてきた言葉があります。「相手の立場に立って考える」「相手と同じ目線で見る」と言う言葉です。私自身も30年に渡る活動生活の中で、標語のように掲げてきました。でも A敢えて全面否定いたします。これらの2つの言葉はボランティア活動をつづける上で「癌」となっています。健康なボランティア活動を続けようとするなら、まず「癌」を切り取り、摘出しなければなりません。「相手の立場に立って考える」と言う言葉を考えてみましょう。もし貴方が、癌やエイズに冒され死を待つばかりの時、「貴方の気持ちは分かります。」と言って近づいて来る人が居るなら貴方はどう思われるでしょうか?顔では微笑み、「ありがとう」と言いながら「無責任なこといわないでよ、貴方に私の苦しみがわかるわけ無いでしょう!」と、腹の中では思うのではないでしょうか?
支援を受けている人々は、いつも支援をしてくださっている人々の気持ちを考え、善意なのだから、と思い、我慢し、おとなしくしています。信頼関係も築かれていないのに、相手の立場を理解したような態度や言葉は、支援を受けている人を傷つけ苦しませています。「相手と同じ目線で見る」という言葉では、貴方はどの位置に居ますか?支援を受ける人よりも高い位置にいて、低くなろうとしているのではないでしょうか? 最初か支援者と支援を受ける人は平等ではなく、高い位置から低くなろうとしています。 両者の間は平等ではなく、支援者がいつも上にいて助けてあげよう、教えようとしています。この関係では信頼は育たず支援者に対して恨みさえ抱きます。ではどうすればよいのでしょうか?
相手を理解しょうとするのではなく、相手の言葉に耳を傾ける事からはじめてはいかがでしょうか、そして『友』となることからはじめてみましょう。友達として、支援者と支援を受ける人の間に信頼関係が築ければ活動がスムーズで、やりやすくなると思えます。相手の求めることで、出来る事をお手伝いし、出来ないことはハッキリ出来ない。と、伝えるのが良いように思えます。する気も無いのに断るのは失礼だ、と思い、いつまでも断らなければ、相手はしてくれるものと勘違いして、いつまでも待ちつづけます。後でする気が無いと分かった時には、信頼関係も崩壊しています。
二、ボランティアは誰でもできる(トップ)
一、 怠け者でも、
二、 異端児でも、
三、 変わり者でも、
四、 日雇い労働者でも、
五、 お酒の好きな人でも、
六、 博打の好きな人でも、
七、 失敗ばかりする人でも、
八、 異性に興味のある人でも、
九、 借金を背負っている人でも、
十、 風欲の仕事をしている人でも、
十一、何をするにも早くできなくてのろまの人でも、
十二、過去に過ちを犯し有罪判決を受けた人でも、
ボランティア活動に資格は要らない。だれでも自発的にできるのがボランティア。ボランティアは仕事ではない。お互いが足りないところを補い合い助け合う活動だ。ボランティアの文字を英語辞書で引いてみると「 vol.un.teer 」志願者 ( 兵 ) 、有志の、自発的な、進んで事に当たる、と出ている。自ら進んで行う行為がボランティアの原点だが? でも、世間一般ではボランティアをする人の資質が問題視されている。
一、 正直な人、
二、 誠実な人、
三、 まじめな人、
四、 経済的にも自立している人、
五、 家庭生活も上手納めている人、
六、 過去に罪を犯したことの無い人、
七、 周囲の人から信頼されている人、
八、 人様に後ろ指を差されることのない人、
もっとたくさんの資質を要求されるかもしれないが、いくら羅列してみても同じ事のように思える。もし、ボランティアをする人の人格や資質が問われるなら、だれも、できる人は居ないだろう。人は、そんなに潔癖でもなく、いつも失敗ばかりしているから・・・。
私自身、人に言えないミスや失敗ばかりしている。自分の欠点や失敗を見つめるなら・・・「ボランティア活動をしています。」とは、とても恥ずかしくて言う事はできません。自分ほどボランティアにふさわしくない人は居ないだろうとさえ思えます。しかし、欠点や弱さを持っている事でボランティアができないと思うのは間違いのような気がします。その人の弱さは、ボランティア活動を続けていく中で大きな助けにもなってくれます。支援を受ける人達の、悲しみや、苦しみに、心を寄せる事ができるのです。また、思い上がりや高慢な態度にならないように守ってくれます。ボランティア活動を続けていく中で、定められた法律で裁けない罪もいっぱいあります。長い時を海外援助で過ごしてきましたが、多くのボランティアの人が犯してきた罪をいっぱい目にしてきました。
自己満足援助
して上げる援助
現状に合わない援助、
現地負担を強制する援助
援助側の都合で行われる援助
相手側のプライドを傷つける援助
相手側の宗教や思想を無視した援助
売名行為や名誉のために行われる援助
援助者 ( 団体 ) の都合で中止してしまう援助
貧しい人たちや災害を利用して利益を求める援助
ボランティアの言葉が持つ意味と、日本で使われているボランティアの意味が違っているようにさえ感じられる。なぜか? 大〜きく、大〜きく、本筋から離れているように思える。カンボジアの人々の間にはボランティアと言う言葉は無い。助け合わなければ生きていけない貧しい人たちには、助け会う事があたりまえで、特にボランティアという言葉を必要としない。『物』が豊かになると『心』を忘れてしまい『ボランティア』と言う言葉で促さなければ助け会う事をしなくなったからではないだろうか?
ボランティアの対象者が本当に私達の援助を必要としているのだろうか?自己満足と優越感に浸るため、また、利益を得るために行われる援助、 ボランティアビジネス。貧困、戦争、自然災害などを題材に金集めを行い団体の存続を計画する。
貧乏な人
困っている人
知識の無い人
弱いと思える人
苦しんでいる人
知恵の足りない人
と、自分達よりも低いと勝手に思っている人々を対象者にしているのではないだろうか? その人々が本当に私達の援助を必要としているのか? 本当に必要な援助なのか?そんなことなどどうでもよく、援助者 ( 団体 ) の都合で進められる援助・・・・・。発展途上国、後進国、という言葉は先進国だと思っている人々の言葉ではないだろうか?『物』が有る事が先進国で『物』が無ければ後進国・・・人が生きていくのに本当に必要なものは『物』だろうか?全ての人々が幸福を求め生きている。『物』の豊かさが人々を幸福にしてくれるだろうか?『物』よりも『心』の豊かさが人々の生きる喜びになり『幸福』になれるように思う・・・。一般的に後進国といわれ発展途上国といわれるカンボジアに住み、心の豊かなカンボジアの人々と接してきた。助け合い労り合って生きている人々の姿に感動する日々の中で先進国とはなんだろうと思う・・・。
カンボジアには紀元八世紀から十三世紀まで500年に渡って続いたアンコール王朝がありカンボジア人の誇りとなっている。今でもカンボジア国旗の中心にはアンコールワットの図柄が描かれている。その遺跡の中にバイヨン寺院があり大きな石で作られた四つの顔を持つ四面像がある。その四つの顔には意味があり『慈』『悲』『喜』『捨』を現している。
『慈』は、人や動物、生き物に対する慈しみの心
『悲』は、不幸に対して共に哀れむ心
『喜』は、人や生き物の幸を喜ぶ心
『捨』は、施しをする心
カンボジアの、人々の心の中に、一千年に渡って引き継がれている。これらの四つはカンボジアだけでなく、人が生きていく中で忘れてはならない心のあり方のように思える。ボランティア活動を続けていく中で、忘れてはならない基本のような気がします。海外援助で経験したことや、自分自身の失敗談をほんの少しだけ記録したい。


