カンボジアの歴史と現在
第1章 歴史
第1節 植民地時代
13世紀末以降カンボジアは西の隣国シャム(現在のタイ)勢力拡大に伴い頻繁な侵略に苦しめられることとなり、15世紀半ばにアンコール王朝はシャムのアユタヤ王朝に滅ぼされ、次第に国力を低下させていった。現在は国教になっている上座部(小乗)仏教もこの時期にシャムから伝えられたものである。17世紀には西のシャムに加え、東のベトナム(阮朝)からの侵略と干渉をうけるようになった。更に19世紀の中頃以降になると、フランスのインドシナ進出が始まり、同国の影響を強く受けるようになった。1863年保護領とされ、1887年仏領インドシナに編入された。1945年3月、日本軍がインドシナ半島でフランスの武装解除したことに伴い当時のシハヌーク国王はカンボジアの独立を宣言した
が、同年8月の日本敗戦後、フランスはこの独立宣言を認めずかつての保護条約を基礎とした統治を継続した。
第2節 独立
完全独立を達成するため、シハヌーク国王は47年に憲法を公布して立憲君主制を確立し、49年に司法警察・軍事を除く限定的独立を獲得。その後フランスとの交渉を進めながら各国を訪問して国際世論を喚起し、53年11月9日に完全な独立を達成した。シヌハーク殿下は現在の行政機構の基礎となる中央及び地方の行政組織の整備を進め、経済開発の面でも基礎インフラを整備し、産業育成に努めたのである。その一方で極右派・極左派には圧力を強め、特に60年代以降に徐々に左派への圧力を強めたことが、中道派の極左派クメール・ルージュ(KR、ポル・ポト派)への参加及び親米右派の勢力増強を招いた。
隣国ではベトナム戦争が激化する中、カンボジア国内は平和な時期が続いたが、シヌハーク殿下はベトナム共産軍によるカンボジア東部のホーチミン・ルート使用を黙認し、次第に反米・親中・親ソの外交姿勢を強めたことから、新米右派の反感を招き、70年3月に殿下が外遊中に発生したロン・ノル将軍率いる親米右派によるクーデターに繋がった。
第3節 内戦
アメリカに支援されたロン・ノルがシヌハーク殿下を政権の座から追いやると、ポル・ポト率いる共産主義製勢力KRとロン・ノル政権との間の内戦が激しさを増した。1975年4月、この戦いを制したKRは民主カンプチア政権を樹立させた。ポル・ポト政権は急進的な共産主義政策を採った。貨幣を廃止、私有財産を拒否し、農本主義・独裁的政策を実施した。まず、都市住民を地方へ強制移住させるとともに、知識人やロン・ノル政府及び軍関係者を処刑。地方では強制労働が行われ、政府の政策に異を唱えるものは処罰された。その結果、同政権が全土を実効支配した75年4月から79年1月までの間に、飢餓と処刑により約100万人とも200万人とも言われる国民が犠牲者になったと推測されている。極
端な政策から一部のKR兵士は政権を離脱してベトナムに逃れ、78年12月カンプチア救国民族統一戦線を結成。領土問題でKRによる攻撃を受けていたベトナムは、同月、同戦線とともにKR政権打倒のためカンボジアに侵略した。
79年1月に救国民族統一戦線はベトナム軍とともにプノンペン陥落させると、一気にKRを国境付近へ追いやり、領土の大半を実効支配し、ヘン・サムリン人民革命評議会議長を元首とするカンプチア人民共和国を樹立した。これに対し、インドシナでのベトナム勢力拡大の脅威を感じたASEAN諸国は米中と共に、プノンペン政権に対抗する勢力の結集を図り、シヌハーク派、ポル・ポト派、ソン・サン派の三派連合形成を支援、82年に民主カンボジア連合政府が結成された。こうしてソ連及びベトナムの支援を受けたプノンペン政権と西側諸国及び中国の支援を受けた三派連合との間の対立が構造化し、カンボジアでの内戦は継続した。内戦は1998年ポル・ポト派が完全に投降するまで続く。
第4節 難民
大虐殺を生き抜いた難民たち、難民キャンプで暮らす母親は、我が子について次のように述べている。「難民キャンプで生まれ育った子供たちは、祖国もなければふるさともありません。祖国カンボジアという国で、自分がカンボジア人かどうか自覚さえないのです。インドシナに生まれ育ちながら木になっているマンゴーも見たことがなければ、稲の植え付けもしらない。お爺ちゃんやお婆ちゃんがいたということさえもしらない。キャンプで育った子たちが知っていることと言えば、戦いに行ったことだけです。それが彼らの選ぶ唯一の道だったのです。」
ポル・ポトは子供たちを新改革の世代と呼び、徹底した思想教育を行います。全ての子供たちが、親から引き離され、国家の管理の下で集団行動を強いられました。「我々は独自の世界を建設している。新しい思想を建設するのである。したがって伝統的な学校も病院もいらない。貨幣もいらない。例え親であっても社会の毒と思ったら微笑んで殺せ。今住んでいるのは、新しい故郷なのである。我々はこれより、過去を捨てるのである。泣いてはいけない。泣くのは今の生活を嫌がっているからだ。笑ってはいけない。笑うのは昔の生活を懐かしんでいるからだ。」これは当時ポル・ポトが子供たちに掲げていたスローガンである。1975年〜1979年の間に学校の先生の80%が虐殺され、校舎の90%以上
は破壊された。よって子供たちは教育など受けずにポル・ポトの支配下にみまわれた。
第2章 産業
第1節 林業
約30年間の内戦の間にカンボジアは大切な国の資源を失いました。1970年当時、内戦に入る前のカンボジアは国土の80%がジャングルだった。豊かに木があり、小動物がいて、野菜など食べられる草や葉がいっぱいあったのである。ところが内戦後、ジャングルは消え去った。カンボジアではピストル、火薬、機関銃もなければ爆弾もない。そんな中で、なぜ30年間も戦争が続いたのか。フローリング、ベニヤ板など、私たちの生活ではごく身近な木材が30年間の間に全て海外に売り渡されたのだ。カンボジアの資源という資源が全て枯渇した時に終戦がきたのである。カンボジアから海外に輸出することができなくなったからということが背景にある。またベトナム戦争の際に米軍によってカンボジア
に大量の爆弾が落とされたことも影響を及ぼしている。その時に投げ込まれた爆弾は5万トン以上のもので、日本に落とされた爆弾の約2〜3倍の量の爆弾がカンボジアに1年間で落とされたのである。犠牲者はもちろん、森林は焼け野原化した。現在のカンボジアも森林、山はなく見渡す限り平地である。
第2節 農業と地雷
カンボジアの気候は大きく雨期と乾期とされています。雨期では、日本では考えられないほどの雨(スコール)が降る。乾期はさらに涼季と暑季に分けられるが、ともに30℃以上の気温であり、日照りが続き暑季ともなれば40℃にもなるのでカンボジア人も労働をやや控える程である。気候により農業をして何かを作り出すことは限られていて、とても難しいと思われる。更に一番大きな問題は、全国の村の46%に地雷や不発弾が残っており、畑や田んぼを耕す際に地雷被害に遭うケースが多いことである。
そもそもカンボジアに埋められている地雷は1967年北ベトナム軍が自軍の基地や補給路をカンボジア東部の一部に建設し、これらの施設を守るために地雷を周辺に埋設させた。これがカンボジアで記録されている、最初の地雷使用である。その後、この補給路の壊滅を目指したアメリカ軍が空からの地雷散布と陸からの地雷埋設をカンボジア、ベトナムの国境付近で行った。地雷はカンボジアには関係のない戦争により諸外国から国内に持ち込まれたのである1970年以降カンボジアの国内で勃発した内戦でも、対立する各派が多くの地雷を継続的に使用するようになった。戦争の広がりとともに地雷もカンボジア全土に埋設されるようになった。1979年、政権を追われたクメール・ルージュがタイ国境付
近へと逃げたこともあり、カンボジア国内への再入国を恐れたベトナム軍が、タイ国境からラオス国境までを約100万個の大規模な地雷原で覆い、その流入を阻止しようとした。地雷の使用は1992年に国連カンボジア暫定統治機構が入るまで続くこととなった。
第3節 性産業
現金収入が得られにくい貧困層である農村部に豊かにあるのが15歳以下の子どもたちである。今日でも、どこにも役所がない。住民票がなく出生届けもないのだ。その為、人身売買が広く行われている。最近では売買される年齢がどんどん低年齢化していき、生まれたという証拠がないために赤ちゃんまでどんどん売られていく。子どもたちは大人の性対象にされるのである。幼児売春だ。
一昨年ヤン・ソギルという人が書かれた書物が映画化され話題を呼んだ。「闇の子どもたち」という映画だ。子どもたちの中には両親の借金の肩代わりに売られて行ったり、誘拐される子どもも少なくない。年間10万人ぐらいが売られていくのだ。人身売買され奇跡的に警察官に保護された子どもたちはタイ側からポイペットへ強制送還される。帰ってくる子どもたちの数は1万人ぐらいだけである。人身売買された子供たちの多くはAIDSに感染している。カンボジアに戻ってきた子どもたちは決して家に帰ることが出来ない。また売られてしまうからだ。汚れたとみなす親はわが子を放り出すのだ。カンボジアはアジアの中で最もAIDSが広がっている国である。子どもたちは家に帰れず両親の保護もなく
道端で生活している。AIDSに感染している子どもたちは誰からも保護されず、治療も受けられず道端で孤独に死んでいくのが現実である。
第3章 経済
第1節 政治
カンボジアの行政府は議員内閣制である。司法制度は三審制。政治に関わる仕事、高級公務委員と呼ばれる人たちがお金をポケットに入れていく。カンボジアはたくさんの国から支援金をもらっている。いつまでたっても地雷がなくならない。教育が行き届かない。自立していくことができない。それは全て高級公務員が国全体にお金を回さないからだ。私がカンボジアに行った時に、入国審査場で、ある国の人に「早く行きたければ金を払え」と言われている光景を目にした。そんな光景を見た私は恐る恐るパスポートを出したものの日本人であることが分かれば、10秒もしないうちに通してくれたのだ。公務員が国を選び、見下し卑怯な手を執っているのが事実なのである。選挙が行われてから17年の年月が
経った今でも、税金制度もなく、住民票も出生届けもない国が、存在するのだ。
第2節 生活
都市部では、地方から仕事を求め集まってきた難民であちらこちらにスラムができあがり新しくきた人たちが公園で寝泊まりしている。しかし、市場にはタイやベトナムから
運び込まれた物資があふれ、町には高級外車が走り回り、昨年までなかった信号機が活躍している。政府役人や高級軍人は、高級料理店で食事をし、クラブで遊んでいる。夜になるとまるで旧約聖書に出てくるソドムとゴモラの街さながらに荒廃しきった欲望街に変身する。一方、農村部では、村の人々は、朝太陽が昇るとともに起き、夕日が沈むとともに休む。生きるのも死ぬのも自然の摂理として、自然に逆らわず、自然に同化して、自然の恵みを豊かに受けている。住んでいる場所の周りの環境によって全く違う生活をしている。都市部では1日200円前後、農村部では100円以下の生活である。
第3節 格差
前節でもあげたように高級公務員より都市部に住む人や農村部で暮らすカンボジア人はとても位が低いように思われる。自給自足をする農村部の人たちは天災によってなかなか生活が苦しくなってしまう。仕事がないために、男たちは都市部に出て観光客相手に仕事をする。その間、女たちは食べ物の収穫や裁縫などで稼ぎを得たりしているが、実際はやはり苦しい。男が帰ってくるのは年に1,2回だそうだ。子どもたちは母親の手伝いや食料などを売りに出る。
カンボジアの学校は午前と午後のどちらかで授業を受ける。家庭の中での自分の役割が空いた時間に学校に学びに行けるようになされている。最近では教育水準が上がってきているものの、まだまだ学校に通えない子どもたちは少なくない。教育の重要性に対する親の理解の低さ、貧困など様々な理由から、義務教育を全うする生徒は少ない。就学率は、小学校では90%(修了率は約53%)、中学校では約25%、高等学校では10%に満たない。このように勉学の面でも格差が広がる原因でもある。
第4章 結論
第1節 施策
だから税金を払うという政治経済がない中でカンボジアは自立することができない。これにより、私が考えた施策が次の通りである。
カンボジアに支援金を与えるのではなくカンボジアを支援している側の国は企業や事業をカンボジアで発展させることによって、カンボジア人に仕事を与える。そうすることによって、生活水準が上がっていき、税制度を1つでも作ることができ、自国の発展に繋げることができるだろうし、仕事の技術も身につき自国で活動できるようになるかもしれない。また隣のタイの国で格差社会を和らげることに成功を遂げた「一村一品」制度。この制度は1つの村に1つの特産物を作るというものである。川や湖で年中、漁業が出来る村には漁業組合を。栄養が高い土を持つ村や、比較的年中涼しい気候である村にはその村にあった農作物を。裁縫であったり工業であったり、このように一村一品制度はカンボジアの経済
水準を上げていくことができるだろう。毎年、大雨が降って木やいろんな物が流される中で土質が非常に豊かな土になる。地雷を撤去し農地を広げることによってカンボジアが農業で食べていける国になるのだ。
また、世界遺産に登録されたアンコールワットを掲げ観光産業に力を入れることによってますます国に資金を得ることができることは間違いない。そのためにはやはり、水道、電気、交通などの便を盛んに整備していかなければならない。
第2節 研究のまとめ
カンボジアの長く続いた決して忘れてはいけない内戦。ポル・ポトによる非人間的な扱いを受け、また、非人間的な殺し方をされた尊い命の大虐殺。内戦により失われた国の資源、30年間も戻ることがなかった教育。カンボジアの経済が発展しない、社会格差が広がっている要因が明確なものになっていった。資金を送ることだけが正しい支援だとは思わない。私たちは困っている人、泣いている人、苦しんでいる人を見かけたら、その人のことをかわいそうだと思いがちなのである。だからといって物やお金を提供したとしたらどうなるだろうか?物やお金は使えばなくなってしまう。物やお金を提供するのではなく、物やお金を作りだす力を提供するのである。それは、教育や、知恵、知識、技術、仕事を提
供することだ。そして、カンボジアの人たちが自分たちで自分たちの国を守ろうとする税金を払える国になっていくことが本当に求められている自立支援なのである。大量の資金を送る支援、それは一生懸命その国の自立を阻害しているのだ。
『カンボジアこどもの家』
『カンボジアこどもの家』栗本 英世

カンボジアの歴史と現在


第1章 歴史

第1節 植民地時代

13世紀末以降カンボジアは西の隣国シャム(現在のタイ)勢力拡大に伴い頻繁な侵略に苦しめられることとなり、15世紀半ばにアンコール王朝はシャムのアユタヤ王朝に滅ぼされ、次第に国力を低下させていった。現在は国教になっている上座部(小乗)仏教もこの時期にシャムから伝えられたものである。17世紀には西のシャムに加え、東のベトナム(阮朝)からの侵略と干渉をうけるようになった。更に19世紀の中頃以降になると、フランスのインドシナ進出が始まり、同国の影響を強く受けるようになった。1863年保護領とされ、1887年仏領インドシナに編入された。1945年3月、日本軍がインドシナ半島でフランスの武装解除したことに伴い当時のシハヌーク国王はカンボジアの独立を宣言したが、同年8月の日本敗戦後、フランスはこの独立宣言を認めずかつての保護条約を基礎とした統治を継続した。


第2節 独立

完全独立を達成するため、シハヌーク国王は47年に憲法を公布して立憲君主制を確立し、49年に司法警察・軍事を除く限定的独立を獲得。その後フランスとの交渉を進めながら各国を訪問して国際世論を喚起し、53年11月9日に完全な独立を達成した。シヌハーク殿下は現在の行政機構の基礎となる中央及び地方の行政組織の整備を進め、経済開発の面でも基礎インフラを整備し、産業育成に努めたのである。その一方で極右派・極左派には圧力を強め、特に60年代以降に徐々に左派への圧力を強めたことが、中道派の極左派クメール・ルージュ(KR、ポル・ポト派)への参加及び親米右派の勢力増強を招いた。隣国ではベトナム戦争が激化する中、カンボジア国内は平和な時期が続いたが、シヌハーク殿下はベトナム共産軍によるカンボジア東部のホーチミン・ルート使用を黙認し、次第に反米・親中・親ソの外交姿勢を強めたことから、新米右派の反感を招き、70年3月に殿下が外遊中に発生したロン・ノル将軍率いる親米右派によるクーデターに繋がった。


第3節 内戦

アメリカに支援されたロン・ノルがシヌハーク殿下を政権の座から追いやると、ポル・ポト率いる共産主義製勢力KRとロン・ノル政権との間の内戦が激しさを増した。1975年4月、この戦いを制したKRは民主カンプチア政権を樹立させた。ポル・ポト政権は急進的な共産主義政策を採った。貨幣を廃止、私有財産を拒否し、農本主義・独裁的政策を実施した。まず、都市住民を地方へ強制移住させるとともに、知識人やロン・ノル政府及び軍関係者を処刑。地方では強制労働が行われ、政府の政策に異を唱えるものは処罰された。その結果、同政権が全土を実効支配した75年4月から79年1月までの間に、飢餓と処刑により約100万人とも200万人とも言われる国民が犠牲者になったと推測されている。極端な政策から一部のKR兵士は政権を離脱してベトナムに逃れ、78年12月カンプチア救国民族統一戦線を結成。領土問題でKRによる攻撃を受けていたベトナムは、同月、同戦線とともにKR政権打倒のためカンボジアに侵略した。79年1月に救国民族統一戦線はベトナム軍とともにプノンペン陥落させると、一気にKRを国境付近へ追いやり、領土の大半を実効支配し、ヘン・サムリン人民革命評議会議長を元首とするカンプチア人民共和国を樹立した。これに対し、インドシナでのベトナム勢力拡大の脅威を感じたASEAN諸国は米中と共に、プノンペン政権に対抗する勢力の結集を図り、シヌハーク派、ポル・ポト派、ソン・サン派の三派連合形成を支援、82年に民主カンボジア連合政府が結成された。こうしてソ連及びベトナムの支援を受けたプノンペン政権と西側諸国及び中国の支援を受けた三派連合との間の対立が構造化し、カンボジアでの内戦は継続した。内戦は1998年ポル・ポト派が完全に投降するまで続く。


第4節 難民

大虐殺を生き抜いた難民たち、難民キャンプで暮らす母親は、我が子について次のように述べている。「難民キャンプで生まれ育った子供たちは、祖国もなければふるさともありません。祖国カンボジアという国で、自分がカンボジア人かどうか自覚さえないのです。インドシナに生まれ育ちながら木になっているマンゴーも見たことがなければ、稲の植え付けもしらない。お爺ちゃんやお婆ちゃんがいたということさえもしらない。キャンプで育った子たちが知っていることと言えば、戦いに行ったことだけです。それが彼らの選ぶ唯一の道だったのです。」ポル・ポトは子供たちを新改革の世代と呼び、徹底した思想教育を行います。全ての子供たちが、親から引き離され、国家の管理の下で集団行動を強いられました。「我々は独自の世界を建設している。新しい思想を建設するのである。したがって伝統的な学校も病院もいらない。貨幣もいらない。例え親であっても社会の毒と思ったら微笑んで殺せ。今住んでいるのは、新しい故郷なのである。我々はこれより、過去を捨てるのである。泣いてはいけない。泣くのは今の生活を嫌がっているからだ。笑ってはいけない。笑うのは昔の生活を懐かしんでいるからだ。」これは当時ポル・ポトが子供たちに掲げていたスローガンである。1975年〜1979年の間に学校の先生の80%が虐殺され、校舎の90%以上は破壊された。よって子供たちは教育など受けずにポル・ポトの支配下にみまわれた。


第2章 産業

第1節 林業

約30年間の内戦の間にカンボジアは大切な国の資源を失いました。1970年当時、内戦に入る前のカンボジアは国土の80%がジャングルだった。豊かに木があり、小動物がいて、野菜など食べられる草や葉がいっぱいあったのである。ところが内戦後、ジャングルは消え去った。カンボジアではピストル、火薬、機関銃もなければ爆弾もない。そんな中で、なぜ30年間も戦争が続いたのか。フローリング、ベニヤ板など、私たちの生活ではごく身近な木材が30年間の間に全て海外に売り渡されたのだ。カンボジアの資源という資源が全て枯渇した時に終戦がきたのである。カンボジアから海外に輸出することができなくなったからということが背景にある。またベトナム戦争の際に米軍によってカンボジアに大量の爆弾が落とされたことも影響を及ぼしている。その時に投げ込まれた爆弾は5万トン以上のもので、日本に落とされた爆弾の約2〜3倍の量の爆弾がカンボジアに1年間で落とされたのである。犠牲者はもちろん、森林は焼け野原化した。現在のカンボジアも森林、山はなく見渡す限り平地である。

 

第2節 農業と地雷

カンボジアの気候は大きく雨期と乾期とされています。雨期では、日本では考えられないほどの雨(スコール)が降る。乾期はさらに涼季と暑季に分けられるが、ともに30℃以上の気温であり、日照りが続き暑季ともなれば40℃にもなるのでカンボジア人も労働をやや控える程である。気候により農業をして何かを作り出すことは限られていて、とても難しいと思われる。更に一番大きな問題は、全国の村の46%に地雷や不発弾が残っており、畑や田んぼを耕す際に地雷被害に遭うケースが多いことである。そもそもカンボジアに埋められている地雷は1967年北ベトナム軍が自軍の基地や補給路をカンボジア東部の一部に建設し、これらの施設を守るために地雷を周辺に埋設させた。これがカンボジアで記録されている、最初の地雷使用である。その後、この補給路の壊滅を目指したアメリカ軍が空からの地雷散布と陸からの地雷埋設をカンボジア、ベトナムの国境付近で行った。地雷はカンボジアには関係のない戦争により諸外国から国内に持ち込まれたのである1970年以降カンボジアの国内で勃発した内戦でも、対立する各派が多くの地雷を継続的に使用するようになった。戦争の広がりとともに地雷もカンボジア全土に埋設されるようになった。1979年、政権を追われたクメール・ルージュがタイ国境付近へと逃げたこともあり、カンボジア国内への再入国を恐れたベトナム軍が、タイ国境からラオス国境までを約100万個の大規模な地雷原で覆い、その流入を阻止しようとした。地雷の使用は1992年に国連カンボジア暫定統治機構が入るまで続くこととなった。第3節 性産業現金収入が得られにくい貧困層である農村部に豊かにあるのが15歳以下の子どもたちである。今日でも、どこにも役所がない。住民票がなく出生届けもないのだ。その為、人身売買が広く行われている。最近では売買される年齢がどんどん低年齢化していき、生まれたという証拠がないために赤ちゃんまでどんどん売られていく。子どもたちは大人の性対象にされるのである。幼児売春だ。一昨年ヤン・ソギルという人が書かれた書物が映画化され話題を呼んだ。「闇の子どもたち」という映画だ。子どもたちの中には両親の借金の肩代わりに売られて行ったり、誘拐される子どもも少なくない。年間10万人ぐらいが売られていくのだ。人身売買され奇跡的に警察官に保護された子どもたちはタイ側からポイペットへ強制送還される。帰ってくる子どもたちの数は1万人ぐらいだけである。人身売買された子供たちの多くはAIDSに感染している。カンボジアに戻ってきた子どもたちは決して家に帰ることが出来ない。また売られてしまうからだ。汚れたとみなす親はわが子を放り出すのだ。カンボジアはアジアの中で最もAIDSが広がっている国である。子どもたちは家に帰れず両親の保護もなく道端で生活している。AIDSに感染している子どもたちは誰からも保護されず、治療も受けられず道端で孤独に死んでいくのが現実である。

第3章 経済

第1節 政治

カンボジアの行政府は議員内閣制である。司法制度は三審制。政治に関わる仕事、高級公務委員と呼ばれる人たちがお金をポケットに入れていく。カンボジアはたくさんの国から支援金をもらっている。いつまでたっても地雷がなくならない。教育が行き届かない。自立していくことができない。それは全て高級公務員が国全体にお金を回さないからだ。私がカンボジアに行った時に、入国審査場で、ある国の人に「早く行きたければ金を払え」と言われている光景を目にした。そんな光景を見た私は恐る恐るパスポートを出したものの日本人であることが分かれば、10秒もしないうちに通してくれたのだ。公務員が国を選び、見下し卑怯な手を執っているのが事実なのである。選挙が行われてから17年の年月が経った今でも、税金制度もなく、住民票も出生届けもない国が、存在するのだ。

第2節 生活

都市部では、地方から仕事を求め集まってきた難民であちらこちらにスラムができあがり新しくきた人たちが公園で寝泊まりしている。しかし、市場にはタイやベトナムから運び込まれた物資があふれ、町には高級外車が走り回り、昨年までなかった信号機が活躍している。政府役人や高級軍人は、高級料理店で食事をし、クラブで遊んでいる。夜になるとまるで旧約聖書に出てくるソドムとゴモラの街さながらに荒廃しきった欲望街に変身する。一方、農村部では、村の人々は、朝太陽が昇るとともに起き、夕日が沈むとともに休む。生きるのも死ぬのも自然の摂理として、自然に逆らわず、自然に同化して、自然の恵みを豊かに受けている。住んでいる場所の周りの環境によって全く違う生活をしている。都市部では1日200円前後、農村部では100円以下の生活である。


第3節 格差

前節でもあげたように高級公務員より都市部に住む人や農村部で暮らすカンボジア人はとても位が低いように思われる。自給自足をする農村部の人たちは天災によってなかなか生活が苦しくなってしまう。仕事がないために、男たちは都市部に出て観光客相手に仕事をする。その間、女たちは食べ物の収穫や裁縫などで稼ぎを得たりしているが、実際はやはり苦しい。男が帰ってくるのは年に1,2回だそうだ。子どもたちは母親の手伝いや食料などを売りに出る。カンボジアの学校は午前と午後のどちらかで授業を受ける。家庭の中での自分の役割が空いた時間に学校に学びに行けるようになされている。最近では教育水準が上がってきているものの、まだまだ学校に通えない子どもたちは少なくない。教育の重要性に対する親の理解の低さ、貧困など様々な理由から、義務教育を全うする生徒は少ない。就学率は、小学校では90%(修了率は約53%)、中学校では約25%、高等学校では10%に満たない。このように勉学の面でも格差が広がる原因でもある。

第4章 結論

第1節 施策

だから税金を払うという政治経済がない中でカンボジアは自立することができない。これにより、私が考えた施策が次の通りである。カンボジアに支援金を与えるのではなくカンボジアを支援している側の国は企業や事業をカンボジアで発展させることによって、カンボジア人に仕事を与える。そうすることによって、生活水準が上がっていき、税制度を1つでも作ることができ、自国の発展に繋げることができるだろうし、仕事の技術も身につき自国で活動できるようになるかもしれない。また隣のタイの国で格差社会を和らげることに成功を遂げた「一村一品」制度。この制度は1つの村に1つの特産物を作るというものである。川や湖で年中、漁業が出来る村には漁業組合を。栄養が高い土を持つ村や、比較的年中涼しい気候である村にはその村にあった農作物を。裁縫であったり工業であったり、このように一村一品制度はカンボジアの経済水準を上げていくことができるだろう。毎年、大雨が降って木やいろんな物が流される中で土質が非常に豊かな土になる。地雷を撤去し農地を広げることによってカンボジアが農業で食べていける国になるのだ。また、世界遺産に登録されたアンコールワットを掲げ観光産業に力を入れることによってますます国に資金を得ることができることは間違いない。そのためにはやはり、水道、電気、交通などの便を盛んに整備していかなければならない。


第2節 研究のまとめ

カンボジアの長く続いた決して忘れてはいけない内戦。ポル・ポトによる非人間的な扱いを受け、また、非人間的な殺し方をされた尊い命の大虐殺。内戦により失われた国の資源、30年間も戻ることがなかった教育。カンボジアの経済が発展しない、社会格差が広がっている要因が明確なものになっていった。資金を送ることだけが正しい支援だとは思わない。私たちは困っている人、泣いている人、苦しんでいる人を見かけたら、その人のことをかわいそうだと思いがちなのである。だからといって物やお金を提供したとしたらどうなるだろうか?物やお金は使えばなくなってしまう。物やお金を提供するのではなく、物やお金を作りだす力を提供するのである。それは、教育や、知恵、知識、技術、仕事を提供することだ。そして、カンボジアの人たちが自分たちで自分たちの国を守ろうとする税金を払える国になっていくことが本当に求められている自立支援なのである。大量の資金を送る支援、それは一生懸命その国の自立を阻害しているのだ。

『カンボジアこどもの家』栗本 英世


Delicious Turkish Recipes